the Choices -脅してでも皆に買わせたい物件-
銅版画のメッカとなっていた18世紀のオランダ。そのライデン大学の解剖学の先生、アルビヌスが、銅版画家の親爺(確か職人の名も普通に残ってた筈だけど失念。本書をちゃんと読めば出てるかも知れない)と頑張って作り上げた、歴史に残る名図版が、この「アルビヌスの解剖図
」である。
あんま長い説明は要らない。兎に角ただもう、銅版画として美しい。出来ることなら、もっとでかい、高価な印刷で拝みたいものだけれど、貧乏カット描きには無理の無理無理。
以前、我らが誇る長谷川館長(※チンピラ絵描きのハセガワサンとは関係ありません)の群馬県立自然史博物館の企画展(ウンダーカマーがどうとか言う、学生主体でコケそうだったので木村画伯や荒俣宏がテコ入れしたと邪推できるアレ)で荒俣宏のコレクションや木村画伯の原画を拝める機会があったのだけれど、図版っていいわ、やっぱ。
結果美術品になってはいるけれど、あくまで使用目的があって描かれてるのが格好イイ。そこで観た中での大物は、ナポレオン・コレクションの石版画(展示物中に1500万円相当の物件があると木村画伯が講演中に暴露されていたが、多分あの辺だろうなあ)と、大野麦風の肉筆原画だったのだけれど、そう言った様々な種類の博物画の中でも、ハセガワサンは無彩色銅版画が大好き。博物画よりは宗教画に多いのだけれど、これも、商品として量産するべく描かれていたことを考えれば、なんとなく惹かれることにも納得が行くよね。
んでこのアルビヌス。よく指摘されている、図版ならではのヘンテコな背景の工夫も素敵。だってあんた、背景に広い面積で暗い調子を置きたいなあと思ったときに、「よし、じゃあサイを描こう」とか思わないだろ。普通。でもいるんだもん。サイが。優雅にポーズを決める、解剖死体の後ろに。
結局説明しちゃったけど、兎に角ただもう、オススメ。買え。買いなさい。
ダヴィンチ・コードとかで図版ブームが来なかったのが不思議でならないが、重要な出版物がみんな洋書ばっかだからなのかな。
森美夏のカメラ・ワーク『北神伝綺』『木島日記』
この森美夏と言う作家、かなりテクニカルな、もっと映画的に言うならば、メカニカルなカメラ・ワークを漫画に導入している。ちょっとおとなしい表現に留めてこれを実現している作家さんは普通にいらっしゃるが、しかし森美夏の場合はヤバイくらいに斜め上を行っていて、それはカメラワークだけに留まらず、キャラクタのデッサンにまで及んでいるのである。パースがきつい、とか、パン方向にパノラミックに開いてる、とかそう言うのは、もう当たり前のこととしてな。
森美夏の表現は、そう言ったお行儀のよい…言い換えれば、見慣れた表現を軽く超越していて、「普通に振り返る動作をするキャラクタ」のデッサンが「ちょっとずつめくれて」いたりするんである。
何言ってるか分かんねえって?イイから読んでみろって。マジで。
上記のキャラクタの描写なんかは、一般的にありがちな作画崩壊と同じ方向の「狂い」である。つまり人は「振り返るキャラクタ」と言うものを想起するときに、その一瞬の静止画をイメージすることはしない。人がそれを頭に浮かべるときには、振り返り始めた姿、振り返りつつある姿、もう振り返って顔の向こう側が見えている姿、を、ごちゃごちゃに統合して脳みそに描いてるものなのだ。で、この森美夏はそれを、視線誘導の順番にツギハギしてのけるんである。もし背景などの動的な描写やカメラワークを意識した歪みを伴っていなければ、ただの下手糞か手抜きに見えてしまうわけだ。或いはこれを感覚的に行っているのであれば、「幼児が描くキュビズム」と似た状態であり、確かに下手糞の範疇なのかも分からないが、だとしたら、本物の天才ってことだぜそれは。幼児の場合は、時間軸とキャラクタの演技に沿った絵の流れなんか意識しないからだ。
(↑改めて漫画を読み返して、いちいちチェックしてみたところ、殆どのソレは手癖の産物のようにも思える。スゲエぞ森美夏)
またそう言う描写が似合う題材を得ていることも特筆したい。森美夏の漫画はその全て(だと思う。少なくとも商業出版で単行本化されているものの全ては)大塚英志原作のオカルト・ストーリーであり、太平洋戦争直前を時代背景に置いている。単行本化が待たれる、連載中の『八雲百怪』についてはもう少し時代を遡るが、とにかく、既に実在した時代や人物を(架空の物語や人物を主体としながらも)扱っているのであり、こう言った捉えどころのない表現で、しかしその実、リアリティを実現した描写にはうってつけかと思うのである。単に過去を舞台にしたというだけではダメで、戦国時代などまで遡ると、もうほとんどファンタジーの世界なので、もう少しおとなしい描写でないと現実感が湧かない。さりとて、現代が舞台では、見本として刷り込まれている映像がTVドラマやニュース映像、そしてなにより実体験のそれだったりするので、今ひとつ森美夏漫画のトリッキーな描写と、自分の中の映像体験とが乖離してしまうのである。実際に目にする風景や情景は、時間経過や視点移動の影響を受けこそすれど、こんなひねくれ曲がったカメラワークは伴わない。
眩暈を起こすようなカメラワークといえば、昭和10年前後の江戸川乱歩や、緩慢な展開のハード・ボイルド小説、そして戦後数十年後のウルトラシリーズ初期で終止符を打つまでの世界がふさわしいのである。