Comics Reviews -コミックス紹介-
ノイタミナでアニメをやってた『西洋骨董洋菓子店
』と言う漫画がある。まだやってんのかな。なんか字面だけだと興味あるジャンルだからチェックしようー、と思っていたのだけれど、どっかに「ただのホモ少女漫画」とか書いてあったので、じゃあまぁ別にいいや。と思って放置していたよしながふみ。
そんなある日。たまたま、モーニングを立ち読みしてたら料理漫画みたいなのが目に入ってきた。
うわ、なんか分かり易い。しかも普通に家で作れそう。食いてぇ。
これ単行本買おう、そうしよう…と思って、ちゃんと冒頭から読んでみて、嗚呼、これがよしながふみか。なるほどホモ漫画だが、「ただの」じゃないな。
この漫画のミソは、主人公がゲイの二人暮しである点で、そこが『クッキングパパ
』や『美味しんぼ
』、『喰いタン
』などとは一線を画している。
後者ふたつは、グルメ漫画なので、ご家庭での料理の参考には向かない。全然向かない。
そして前者は、ご家庭での料理漫画を謳っているが、実際には難しいレシピが殆ど。日常的に台所で作るものではなく、たまのレジャーやイベントを想定していたり、珍しい食材や食べ方を紹介しているだけだったりする。
そして決定的なことは、これらのどれもが、料理がプロ級に巧い(『喰いタン』では主人公は食べるだけのことが多いので尚更)キャラクタを前提にしているので、そう言う料理しか扱ってくれないし、家庭的な料理として紹介されてても、まず専業主婦並に料理ができないと話しにならない。
しかし『きのう何食べた?
』では違う。
主人公は毎日外で働いてる上に、ゲイでナルシストなので、そういった要素を犠牲にしない料理しか作らない。
最も顕著な例が、揚げ物を扱うことがすごく少ない点。
単行本一巻を読んだ限りでは…ナスを一回素揚げしたくらいか。
ハセガワサンみたいな野郎の一人暮らし(シェアリングをしているので同居人はいるのだけれど料理などについては一切の役に立たないし衣食については丸で共にしていないのでこの件では無関係)と条件が被るんである。揚げ物用の鍋なんて、みんな持ってないだろ?それ用の油とかストッカーなども、常備してないだろ?
そんなこんなで、不摂生に生きる男どもの食生活を確実に改変させる、その切欠を与えてくれるのではないか?と期待せざるを得ない、そんな漫画。
あと少女漫画家の常として、普通に漫画が上手なので、感心することしきり。
すごいなあ。デブの表現を使わないで、普通に太ってる人を表現できてる。
漫画でデブな人を描こうとすると、もうなんか明らかにヤバイデブを描かないと分からないよね。お腹がかなり丸いとか。手足が丸いとか。
でも例えばこの漫画では、ちょっと肩の輪郭とかに気を付けるだけで、ちゃんと普通に太ってるのを描き分けてやがる。多分、少年漫画家がコレに挑戦しても、「分かんねーよ」「太って見えねーよ」と非難轟々だろうなぁ。
すげえなあ少女漫画家。
結局買ってきた『おもいでエマノン』
鶴田謙二は『Forget-me-not
』でもそうだったのだけれど、描きたい背景を描くために漫画を描いているふしがある。
実はこれはSF作家ならではの才覚で、SFは設定やら理論やらを台詞やキャラクタではなく背景で語ることが最も美しいのだと、ハセガワサンを始めとする多くのボンクラは確信している。同じ鶴田作品で言うと、水没した浜松町の風景なんかもそうじゃん。
ところがどっこい。本作『おもいでエマノン』は、原作が小説であることも手伝い、台詞によるやりとりのみでSFが展開されていくのが特徴。ではどうやって背景で語るの?
読んで頂けりゃ分かるが、すげえんだこれが。台詞による解説から延長された情緒の部分、失恋旅行(からの帰途)中であると言う主人公の心象風景を「おもいで」の中に滑り込ませつつ、対話する美少女・エマノンの存在そのものが巨大な「おもいで」であることに絡めて展開される物語を、風景画の連続で見事に表現してのけている。主人公と対話しているエマノンが、既にその対話中にも「主人公と対等のキャラクタ」⇔「風景の一部」を行き来する存在として表現されている点に注目したい。
(劇中の話です。それとは別に収録されてるカラーのカット集のことではないです)
自分のイイトコロを見事に伸ばし切って大化けしたSF漫画家、鶴田謙二。寡作でなけりゃこうはならなかったのかも知れない。需要に応じて描きまくっていたら、多分、未だに『チャイナさん』か『アベノ橋』を描いていたに違いないもの。チャイナさんも好きだけどね。
ところで。ちょっと昔の絵描きさんは、海外などを旅行した際のスケッチなどからペン画の図版を起こして(絵:Artと言うには余りに説明的、なので図版:Illustrationとしたい)絵はがきでも冊子でもない、よく分からん出版物を刷って販売していたものなのだけれど、アレ復活しないものかなあ。
古書店で見かけるたびに欲しくなるのだよなあ。集めだしたら拙いことになるので我慢してるけどさ。1枚500〜1500円もするんだもの。
90年代の残滓『エルフを狩るモノたち リターンズ』
♪ベイベ〜 キャリ〜オン 向かい〜風ぇ〜 吹く あ〜さも〜
この辺のアニソンがカラオケから消えてしまって、持ち歌が減ってしまい淋しい限りのハセガワサンです。
そんなアニソンで皆様ご存知と思われるちょい昔(もう「昔」なのか…)の佳作漫画『エルフを狩るモノたち』。その掲載誌の休刊決定に伴い、記念的位置付けで21世紀に復活を果たした続編がコレです。
かつての連載当時から、主人公らの肩書きや年齢などが成長しているにも関わらず、それぞれの中身がビタイチ変わっていないのが、サービス精神満載で極めて好印象。掲載誌の休刊記念と言う意味合いもあるのだろうけれど、とにかく懐古に特化した造りになっている。
例えば、かつて女子高生だったヒロインは女子大生になっており、それなりの外見(微妙〜に背が伸びて、オンナっぽく描かれている)なのに中身そのまんまとか。そんな、当時からのファン以外には嫌悪感すら生じかねない違和感のある描写も多々あり、そもそもその作風からして洗練されてなさ過ぎなので一見さんには極めてオススメし難い漫画となっており益々好印象。
なので、当時のファン以外は読まないように。ハセガワサンとの約束だよ!
♪世っ界はぁ〜 君ぃのったっめっに〜
あ、コミックチャージで連載始まってますね。『打撃女医ナントカ』だっけ。ぶっ叩いて治療するってのは前もやってましたね。前のはなんか、キャプテン臭かったけど。
※以下蛇足
キャプテン臭い(誉め言葉だぜ?)漫画の特徴がつかめてきた。舞台に奥行きがない。荒野とかテキトーなファンタジー世界(何処まで行っても建築意匠や都市構造が同じ、もしくは森ばっか)とかなんだ。トライナントカ
とか、ぱらいそナントカ
とか、ゲン太のナントカ
とか、田丸ナントカの漫画(奥行き云々以前に、全作枚方市が舞台だろ)
とか。いずれにせよ、それが作品の特徴ともなっているので、良し悪しの話ではないんだけどね。トラナントカガン
などはそこが正にイイトコロなわけで、「The Planet Gunsmoke」と言うフレーズがなんか好きなんだハセガワサンは。何処まで行っても同じ風景(砂漠)の絶望の惑星に、何処に行っても同じ人間と言う希望、ってテーマが分かり易い。掲載誌移って何年も経ってからラストを迎えたのに、そのラストがちゃんとキャプテン臭かったのでそこに感激してしまいましたハセガワサンは。
奥瀬サキの漫画はとても大好き。ナニが大好きかって、すげえ漫画っぽいところ。背景の描き方が、兎に角もう、漫画的で誠実っつーか不器用でレベル高いっつーか、多分メインアシの人の特性なのだろうけれど。ナントカカミュって人がそうなのだろうけれど。
別の作家さんだと『勇午』の背景作画なんかもそうなのだけれど、例えば写真資料などを漫画に落とし込むにあたってどうすべきか、みたいなことのお手本にもってこいなんだ。具体的に言うと、カケアミとトーンの合わせ方とか。
内容はと言えば、妖怪の生き残り(?)たちが新宿界隈で大暴れする話なのだけれど、天狗がビルの屋上で探偵事務所開いてたり(本人は『探偵物語』の真似をしているつもりっぽい、と思ってたのだけれど、読み返したらキャラの言動自体にそう言う描写はなかった。ただのパロディなのかしら)、援助交際文化華やかなりし頃(今でも盛んではあるようだけれど)に、まだ幼い傾城の妖狐が、中学生デートクラブでバイトしてたり(本編では高校生となって、主人公の一人として登場)するのだけれど、巻末のオマケ(現在Amazonで入手できる文庫版には収録されてないかも)で作者本人が愚痴っているように、妖怪ならではのディープな特性には殆ど欠けた物語となっていて、逆にソッチに興味がない人には読み易いのではなかろうか。ちょっと妖怪の出てくる漫画なんかを読んでる人なら連想するような、軽いとこしか絡んでこないし、アクション主体だからね。
妙に鼻につく設定も散見されるのだけれど、全体が地味なのでまあ許容範囲。犬神が超振動パンチ繰り出したりするとことか、妖術にいちいち物理的理屈つけてたりするのが、ちょっと。と言う程度。
今ではすっかり原作者として活躍してしまっていて、『フラワーズ』の続きなんか描く気配皆無の奥瀬先生ですが、とりあえずまとまって入手できる『コックリさんが通る
』を読み返してノンビリと待ちましょう、そうしましょう。
↑と思ったら、なんかバーズで連載してやがった。本当?本当に連載してんの?近所にバーズ立ち読める書店がないので全くノーチェックなんよ。
衝動買いの典型例〜山田秀樹『魔乳秘剣帖』
あ、三巻だ。山田章博『BEAST of EAST』
長い間続刊が出ないので、誰もがシビレを切らしてしまい、古本屋に売り払ってしまう漫画のひとつであります。Book OFFに行くと大抵並んでるよね、山田章博。
学生時代には読んでたけど、もう手元にはないなんて人も多いんじゃなかろうか。何十巻も出ている少年漫画などは、何故か実家にとってあったりするのだけれど、この辺の大判コミックスは心機一転ついでに処分してしまうのだよねー、何故か。ハセガワサンの場合、処分の一環としてこれを貰い受けることが多いのだけれど、大概、山田章博は入ってるのだよその中に。
山田章博は他の短編なんかもそうなんだけれど、読み手の知らないネタを骨子に展開されて、ラストでちょっとだけその意味に触れられる、と言う作品に大きく魅力を感じることが多い。反面、最初から普通に知ってるネタでやられると、「構図がいいなあ」とか「線がいいなあ」とかしか楽しむところがなくなってしまうのだよね。さらにそのネタの使い方が幼稚だったりすると、この『BEAST of EAST』のように鼻についてしまうんだ。もう鼻につくつく。
ハセガワサンなんかはクソオタク野郎なので、そりゃもう毛嫌いしてたんだ、この種の漫画。
でも大人になったら気にならなくなりました。
同属嫌悪が消える瞬間てあるよねー。
なにが同属だ。恥を知れこのやろう!
山田章博はカラーイラストなんかだとムチムチしたフラゼッタ娘を描いてるイメージだったのだけれど、近作やこの『BEAST of EAST』ではそんな感じではない。舞台が平安時代の日本だからなのだろうけれど、ちょっと線の遊びを意識した東洋風のタッチになっていて、しかも面白いのは、東南アジア出身とかヨーロッパ出身とかのキャラクタには、フラゼッタ風味を残してるのだよね。
そういう「〜風味」を作風に織り込むタイプの漫画も、これまた毛嫌いしてたんだハセガワサン。元ネタがあるんならそっち読むわい、と。
でも大人になったら気にならなくなりました。
はい、例によってほとんど漫画のレビューにはなっちょりませんね。
「卒業」しちゃった同年代のみんな、中高生の頃を思い出してみない?と言うススメでありました。そんなハセガワサンは『上海丐人賊
(←すげえAmazonに在庫あったよ)』の続刊を夢に見つつ(ほぼ有得ません)、『ガンドライバー
』なんかを集めたりして後ろ向きな時間を楽しんでおります。
東北にも春がやって来たので、とりのなん子『とりぱん』
ハセガワサンは東北の片隅、山に囲まれた盆地に居候しておる。
いずれは海のある暖かいところ…湘南か瀬戸内希望…に引っ越せたらよいなあと思っているので、つまり今の状態は居候のようなものだと決め込んでいるのだけれど、実際、シェアリングをしているマンションの一室に転がり込んでいるので、居候そのものと言えなくもない。
そんな境遇なので、折角の立地条件を活かさぬ手はないと思ってはいるのだけれど、どうにも腰が上がらん。
たま〜にBE-PALとかを購読して気を紛らわしたり、Googleの地図を眺めて田舎旅行の計画だけ立ててみたり、同居人の迷惑をよそにクワガタの繁殖に挑戦してみたり、その同居人が持ち込んだワイン○母を国産蜂蜜の希釈液にぶち込んでみたりと、その程度のことしかしていないんである。
さてこの『とりぱん』。ロハスとかアウトドア系とかとは一線を画している。いやさ、そのラジカルな部分は、ロハスは兎も角としてアウトドア者のそれとは確実に同じなんだけれど、『とりぱん』の方が数段レベルが上なんである。アレだよアレ。「お前は今まで食ったパンの数を覚えているのか?いやさ、お前は今まで鳥にやったパンの数を覚えているのか?」と言った感じで…食卓のパンをむしるかのように、自然に野鳥(など)と戯れているのです、とりの先生は。
しかしそれは、さわやかな絵図では全然ないのがミソなのです。ドタバタとジタバタとご近所の生態系に振り回される作者が、せっせとパンやリンゴや牛脂を鳥に与える、そんな様子を延々と描いている4コマ漫画なのです。
ハセガワサンと同じ東北の、しかしもっともっと北の方のどこか(まあほとんど分かるけど)に住んでいらっしゃるらしいとりのなん子先生。そのご自身の手による、野鳥への餌付け日記を中心に、身の周りの四季の移り変わりなどに鋭く目を向ける、「読んでおきたい」漫画であります。
普段はヘニョヘニョしたイイ絵で展開するのだけれど、これがまたイイ。デフォルメされた鳥の絵を見てると、実際に観たくなるよ。んで、巻頭やカバーのカラーイラストがまた…。根本的にイイんだよなあ。
『栞と紙魚子』と他色々。
ドラマ化と言うことで、巷ではちょっとしたブームになってる『栞と紙魚子』。
ゴメン嘘。流行ってる様子を見たことがない。少なくとも身の周りでは全然。
まあドラマ版である『栞と紙魚子の怪奇事件簿』は観たことがないので、原作漫画の話をしましょう。そうしましょう。
(多分)東京都下の架空の町「胃の頭町」を舞台に、「神経が何本か抜けた」女子高生・栞と、その親友で古書店「宇論堂」の看板娘・紙魚子の二人が、なんかシュールな事件に遭遇したりしなかったり(シュールでないただの怪奇事件に遭遇することもある)する漫画。ドラマの公式サイトによると「ホラーコメディ」らしいのだけれど、その辺を期待するとズレる。
これは、
・植芝理一の漫画『ディスコミュニケーション(中盤の「冥界編」だっけかは除く)』
・西川魯介の一連の漫画
・西岸良平の『鎌倉ものがたり』
・アニメ『かみちゅ!』
・そしてマニアックなとこでは、CG作家 川/洋 さんの作品世界
…などに共通する感覚を呼び起こす漫画なのです。日常の現実世界(と言うか日本の何処かの町)をパーツに使いながら、珍奇な舞台空間を作り上げているのが作品の醍醐味で、観客に「あー、此処に引っ越したい、こいつらに混ざりたい!」と思わせてナンボのもの。そう言う種類の作品なのだけれど…。
『栞と紙魚子』は、ここまでドギツクそれを狙っていて、滑っていない例も珍しい。
何なのだろう、この絶妙なバランス感覚。やり過ぎな筈なんだ。いかにも中高生が考えそうな町のネーミングから、シュール過ぎる世界観。漫画として面白いのはそもそも疑いようがないのだけれど、普通此処までやっちゃうと、そこに行きたいとか住んでみたいとか以前に、この舞台が日本の何処かにあると言う無意識下に近い感覚は、ビタイチ起こらない筈なんだ。
これはおそらくだけれど、主人公たる『栞と紙魚子』が、かなり現実離れした「女子高生」(そもそも諸星大二郎のセンスで描かれるので、絵的に女子高生に見えない)なのに、キャラクタとしての重要な軸…少女漫画の主人公であると言う点がブレてないからだ。彼女らがどんな奇行を繰り広げようが、それ以上の怪奇が巻き起ころうが、おそるべきことに、作品としてちゃんと枠の中…それも少女漫画の枠の中におさまってるんだこれは!同時にジュブナイルの枠の中にも、SFの枠の中にも(理屈で言ったらこれはSFではない。が。SFファンなら、これはSFだと言う主張を理解して頂けると思う。センス・オブ・ワンダーの有無が分かるならば)、おちゃらけ漫画の枠の中にも、綺麗におさまっている。これだけあちこちにジャンルが広がっていながら、どれもブレてない。
足りなくない。充足しているんだ。しっちゃかめっちゃかになりそうなのに、全てがしっかりしているから、「自分がその作品世界の中に入っていく」と言う想像がちゃんと成り立つんだ。「捉えどころがなくない」んだな。
凄いことなのだぜ、これは。
『栞と紙魚子の生首事件』のラストで、栞の影を掴まえてくれた紙魚子(の影)。あのシーンで、ああ、これはちゃんと少女漫画なのだ…!と気付かされるのです。
『不死身探偵オルロック 完全版』G=ヒコロウの入門書は、不完全で微妙。
G=ヒコロウと言う漫画作家がいる。
なんか本厚木の方にいる。
でも本当は、ヴァナ=ディール(FFXI)の方にいるらしい。
この、FFXI(ファイナルファンタジー11。ネトゲ。)に毒されてタイヘンなことになっている漫画作家は、ゲームパロディ漫画をその主な仕事としていた。
ろくに面白くも無いギャグを、異常なハイテンションで隙間なく詰め込んだ、独特を通り越してなんだかよくわかんない作風。残念なことだが、初期の作品や、今回アフィリ広告を貼ったオリジナル作品『不死身探偵オルロック』の前半は、相当につまらない。つまらないのだが。
煮詰まってきてからが、この作家の美味しいところなのだ。上記の『不死身探偵オルロック 完全版』では、表題作『〜オルロック』の後半と、オマケ収録されている『オダキュー』などが、その作品中ではややマシな方に入る。そう、困ったことに、現在新品で手に入るこのただ一冊は、G=ヒコロウの入門としてはあんまり紹介したくない微妙〜な物件なのだ。困ったぞ。
むしろ、ハセガワサンがとてもオススメしたいのは、同人誌への寄稿分なんである。特に、サークル甲冑娘のオリジナル(?)学園エロ漫画『私立三絃堂学園』シリーズに連載(なのか?)されている独特のシュールなギャグ漫画群が、それはもう絶品なのだ。
が。
これはこれで、他の作家たちが描くパロディ臭プンプン(←そもそも企画自体がそう意図されているので仕方ないのだが)のエロ漫画をある程度読まなければキャラクタやストーリーなどが分かり難いし、それらの中でもエロではなくギャグに特化したものだけを読んだとしても(ハセガワサン基準で面白いものが多いのは保証するけれど)作風が色々なので、人によっては大ハズレを引いてゲンナリすることも多々あろうと思う。田丸浩史や道満晴明、安永航一郎などのファンはチェックしてみても損はなかろうとは思うが。
そもそも。そのシリーズは同人誌なので、薄い割りに高いんである。現在は同人誌書店「虎の穴」での安定供給が図られているが(在庫状況は各人その時々でチェックして欲しいが)、それにしたってやっぱり敷居は高い。18禁の半パロディ同人誌なんである。そりゃ手は出し難いわ。余談だが、ハセガワサンだって、学生時代に司淳目当てで此処の同人誌をイベント買いしなければ、こんなに馴染んじゃいなかったろう。それくらい、普通のエロパロ同人なんである。半分は。
しかし困ったことにこの同人サークル。エロパロを引いた残りの半分は、上記したような寡作気味のギャグ作家たちや、寡作どころか生存すら危ぶまれるG=ヒコロウのような稀有なギャグ漫画家の近作を読める、数少ない誌面でもあるのである。
G=ヒコロウ自身、そう言ったサークルへの寄稿などを集めて個人誌を発刊したりはしているが、それはゲーム・パロディ誌に寄稿したものに限られている様子で、上記の『〜三絃堂学園』シリーズはまとめて読むことができない。シリーズを全部買うしかないんである。
えーと、G=ヒコロウの漫画の説明にも、紹介にもなってねえな。兎に角あれだ。小さいコマに、変なデフォルメのキャラがミッチリ詰まって、微妙なギャグと絶妙なナニカを織り交ぜて、ギュウギュウになってんだ。
あとあれです。日記漫画でも有名ですね。『みんなはどぅ?』です。ええ、ええ、絶版ですよ。ブックオフでたまに見かけます。
西川魯介『野蛮の園』
高専を舞台にしたドタバタ漫画。エロ多し。多数の変態たちがところ狭しと右往左往してくれる。高専と言う「行ってない人にとっては未知の領域」を扱うファンタジーであるとも言える。学園ものはみんなそうだ。ただし、高専に行ってた人に言わせると、確かにこんな感じではあるらしい。そのまんまな筈は全然ないのだけれど。
さて。
本来ならば『屈折リーベ』からご紹介すべきところであるのは百も承知。しかしそっちは入手困難のようなので、近作である『野蛮の園』を導入に充てたい。
まず、西川魯介はかなり素朴な漫画を描く。流麗なペンタッチだとか、質感たっぷりの仕上げ処理だとか、コマ割り演出の妙だとか、魅入られるようなアクション描写などとは縁遠い。オタクの多くは「絵の巧い漫画」を好むが、西川魯介はそう言う方向性ではない。しかしオタクの多くは、西川魯介が大大大好きなのである。大好き!
それは何故か。
西川魯介は、オタクが大好きなものが大好きなのである。
西川魯介の面白さとは、自・他作品へのオマージュや引用、前面に打ち出されたフェチズム、国語の教科書を思い出させるような台詞回しや、駄洒落、小ネタを導入として、随所に散りばめられた各種深さのネタの群れである。これはオタクならオタクなほど面白いが、その辺の普通の人にもそれなりに引っ掛かる部分を備えていると言える。
分からないネタがあっても、それは「分かるネタの延長線上」にあるに違いない!と言う納得をスムースに与えてくれるので、そこでテンポが悪くならない…と評価したいけれど、ハセガワサンは立派なオタク野郎なので、いまいち客観的には断言し兼ねるのでありますが。
もうひとつ西川魯介の漫画で魅力的なのは、漫画家の中では特別絵が達者ではないゆえの、作家の生理的な存在を臭わせる絵柄である。この絵柄に関しては、逆のことを考えてみればわかる。デッサンも完璧なスーパーレアリスムで描かれた漫画は、多分観ていて面白くないであろう。それらの修練を積んでしかし、そこから逃れられないままに描かれた失敗作も世に多い。日本のMANGAにおいて、絵が巧い、と言うのはそのままでは足かせになるのである。ただし、巧い絵をイイ絵に崩せる一部の天才、或いは熟練たちに関してはその限りにない。さてその対極である西川魯介や、他には平野耕太などのいる領域は、彼ら一部の作家にしか許されない聖域なんである。「面白いんだからいいじゃねえか!」「これがいいんだよ!」と言う評価が得られる、言わば時代に選ばれた作家たちだ。あと持って生まれた独特のセンスや手癖も物を言う。それらの「歪み」が職業絵描きとして価値を持っていることはあまりないので、多くの場合は、絵を修行する段階で矯正されてしまう。対して西川魯介たちは、美術による粛清を逃れた亡命者のごとく誌面にあるのだ。一部の天才画家たちが、自分の本来持っていた「歪み」を、苦心して晩年に取り戻そうとするのを見ればお分かりだろう。それでもやっぱり、人は、整った綺麗な絵にお金を払いたがるのだけれどね。
一応申し開いておくと、絵が達者でないと言ってもそりゃあ漫画家の中での話しであって、しかも技術的な面にのみ言及した話で、重要なのは上に述べた通り「イイ絵であるかどうか」なので注意されたい。漫画家に限らず、「巧い」と言われて喜ぶ絵描きなんか一人もいないので気をつけてね。どっちかっつうと皮肉か軽蔑の言葉ですので。「あンた、絵ぇ巧いよね」っつわれたら、その後は鼻で笑われなきゃ意味が繋がらないんである。
閑話休題。
西川魯介の漫画は、はまりさえすれば本棚に常備するべきラインアップである。何度も読めるから。すげえ人を選ぶけど、好きになったらやめられない種類の漫画だ。大好き!
ただ、ひとつ問題があって、西川魯介作品の多くは…18禁ポルノなんである。作中の殆どはギャグとクスグリ(落語の用語だったかと思うが、他作品からの引用を指す)とパロディで構成されており、ポルノとしては機能しそうにないのに、である。ただし、何故か生理的にじんわりとくる描写をしてくれるので、欲情を駆り立てる力がないと言うわけでは全然ないから、これはこれでやっぱり困るのだけれど。
漫画の中身に「閑話休題」が頻繁に差し挟まれちゃうような作風、それが、西川魯介。基本バカ。色々バカ。主にメガネバカ。
上山徹郎『隻眼獣ミツヨシ』
江戸時代初期をモデルにした、なんか近未来っぽいような世界で、すげえ強い隻眼の剣士のムッチリお姐さん「柳生柔兵衛密厳」が、ショタっ子「祀千代」を守って異形の刺客たち「真田虫幽士」どもをぶっチメるお話。
エロ漫画家 Black Heart センセイの部屋に転がってたこの漫画本を読ませて頂いてから何年経つだろうか。最初の印象は、
「なんてお行儀のよい漫画だろう!」
だった。それは単に、漫画の文法を逐一守っているぞ!とか、教条主義だとか、とんがってねぇなぁ、とか言う意味ではなかった。むしろ逆かも知れない。いや逆だ。誰が喋ってんのか分かり難いフキダシあるし、キャラクタの動向が分かり難いし。
この作品は、全く単純に、絵が整っている。あんまり手を抜いていない(デフォルメや漫画的崩し方を使っていないと言うことではない。むしろ整った絵の中に使われるので、それらは妙に目立つ)。
この「整っている」ってのが、これ以上やったら興醒めしちゃうというギリギリのところ…を超えてやっているので、人によっては「つまらん絵」が延々続くことになるかも知れない。でも安心して欲しい。そんな人の為には…。
随所にパンツ。おっぱい。またパンツ。お尻、太もも、またお尻。窒息しております。
えー。エロいの?やだなぁ。でも安心して欲しい。
はっきり言って供給過剰で、かなり無機的にこれらを頻出させているので、エロティックな感情は中々湧かない。入浴シーンも、服を引っちゃ破くシーンもあるのに。そもそも、登場人物が真面目に殺陣をしまくってる「だけ」なので、そんな暇がない。本当にそれらのエロ描写はサービスと言うかイイワケと言うか、上辺だけなんである。ただし、どう言うわけか少年キャラクタである祀千代は相当可愛く描かれているので要注意だ。三巻で密厳を励まして絶叫するとこなんか、かなりヤバイ。おいおい主人公かよこいつ!(いや普通に主人公です)
それにも関係するが、この漫画、画面画面の演出意図がハッキリしているので、その意図される以外のことに関しては、全く何の引っ掛かりもなく読み進めてしまう。どれくらい凄いかと言うと、何か分からないことがあってもスルー。漫画表現に難があってもスルー。何が起こってるのか良く分からないアクションシーンがあってもスルー。上記の通り、おパンツ丸見えでもスルー。それどころか全裸シーンもスルー(実際、何度か読むまで、丸で印象に残ってなかったぞ)。作者が描きたいのは、基本的には大雑把なアクションなので、それら以外の描写や、支流とも言える脇の細かいアクション群、パンツ、おっぱい、その他は、かなりのページや面積を割いているにも関わらず、演出上スルーされるように構成されてるんである。これは凄いぜ。それらの要素が頭に残り難いから、繰り返し読める。あずまんが大王とかに通ずるぞ。
この演出について、レイアウトもキッチリ分けて扱っているので、そう言うお手本としては上々であります。あとあれだ。ロゴデザインが中村博文だぞ!!
つげ義春『つげ義春の温泉』
温泉を扱ったつげ義春作品(作中に温泉が出てくればそれに該当します。『ゲンセンカン〜』とかも)をまとめたハードカバー。
当然ですが描き下ろしはありませんので(カヴァーイラストは描き下ろしかしら)、つげ漫画は全部持ってます、と言う方には特別オススメはしませんが、しかし温泉に関するエッセイや、ご本人が撮影した昔の湯治場の写真などが載っていて、そっちがやや垂涎。特に写真。
いいよね、温泉。行きたくなるし描きたくなるよ。
森美夏のカメラ・ワーク『北神伝綺』『木島日記』
森美夏と言う漫画家さんについては、Webの記事を追いかける限りでは、賛否両論に分かれるみたい。
否定的意見として指摘されがちなのは「人物の描き分けに難がある」というものだけれど、この意見に関してはそのまま紹介すると語弊を生む気がするので補足したい。一般的にこう批評される場合は、みんな同じキャラに見える、と言う意味なのだけれど、森美夏の場合は真逆で、全然違うキャラに見えたりするので困る、と言う意味なんである。これは構図の取り方が大胆で動的なこと(後述するところにあり、そしてこれが主題である)にも関係するように思われるが、個人的にはそう言った批評なり投稿記事なりを読むまでは、気にならなかった。気付かなかったと言った方がよろしいかも。
さてこの森美夏と言う作家、かなりテクニカルな、もっと映画的に言うならば、メカニカルなカメラ・ワークを漫画に導入している。複数コマの間でこれを行うことは、既に現代の漫画表現では基礎の内なのだけれど、これを、1コマの中で行っているのである。単純なティルト(カメラの縦回転)やパン(カメラの横回転)、ドリー(平行移動)を想起させる構図や効果線は、これらも漫画表現の基礎技術の内なのだけれど、森美夏の場合、途中でねじれるわ引っ繰り返るわ。三次元的に動きまくるのである。もうちょっとおとなしい表現に留めてこれを実現している作家さんもチラホラといらっしゃるが、しかし森美夏の場合はヤバイくらいに斜め上を行っていて、それはカメラワークだけに留まらず、キャラクタのデッサンにまで及んでいるのである。パースがきつい、とか、パン方向にパノラミックに開いてる、とかそう言うのは、もう当たり前のこととしてな。
キャラクタのデッサンを時間経過やカメラ・レンズの効果を意識して歪める、と言うのも、それだけの字面ならば、従来の漫画表現に含まれる。速いパンチが効果線のみで描かれてたり、素早く動いたキャラクタの残像が残ってたり…ってのがそれだ。
ところが森美夏の表現は、そう言ったお行儀のよい…言い換えれば、見慣れた表現を軽く超越していて、「普通に振り返る動作をするキャラクタ」のデッサンが「ちょっとずつめくれて」いたりするんである。
何言ってるか分かんねえって?イイから読んでみろって。マジで。
上記のキャラクタの描写なんかは、一般的にありがちな作画崩壊と同じ方向の「狂い」である。つまり人は「振り返るキャラクタ」と言うものを想起するときに、その一瞬の静止画をイメージすることはしない。絵描きの多くは、それをあえてイメージできるように訓練するのである。しかるに、人がそれを頭に浮かべるときには、振り返り始めた姿、振り返りつつある姿、もう振り返って顔の向こう側が見えている姿、を、ごちゃごちゃに統合して脳みそに描いてるものなのだ。で、この森美夏はそれを、視線誘導の順番にツギハギしてのけるんである。もし背景などの動的な描写やカメラワークを意識した歪みを伴っていなければ、ただの下手糞か手抜きに見えてしまうわけだ。或いはこれを感覚的に行っているのであれば、「幼児が描くキュビズム」と似た状態であり、確かに下手糞の範疇なのかも分からないが、だとしたら、本物の天才ってことだぜそれは。幼児の場合は、時間軸とキャラクタの演技に沿った絵の流れなんか意識しないからだ。
またそう言う描写が似合う題材を得ていることも特筆したい。森美夏の漫画はその全て(だと思う。少なくとも商業出版で単行本化されているものの全ては)大塚英志原作のオカルト・ストーリーであり、太平洋戦争直前を時代背景に置いている。単行本化が待たれる『八雲百怪』についてはもう少し時代を遡るが、とにかく、既に実在した時代や人物を(架空の物語や人物を主体としながらも)扱っているのであり、こう言った捉えどころのない表現で、しかしその実、リアリティを実現した描写にはうってつけかと思うのである。単に過去を舞台にしたというだけではダメで、戦国時代などまで遡ると、もうほとんどファンタジーの世界なので、もう少しおとなしい描写でないと現実感が湧かない。さりとて、現代が舞台では、見本として刷り込まれている映像がTVドラマやニュース映像、そしてなにより実体験のそれだったりするので、今ひとつ森美夏漫画のトリッキーな描写と、自分の中の映像体験とが乖離してしまうのである。実際に目にする風景や情景は、時間経過や視点移動の影響を受けこそすれど、こんなひねくれ曲がったカメラワークは伴わない。
眩暈を起こすようなカメラワークといえば、昭和10年前後の江戸川乱歩や、緩慢な展開のハード・ボイルド小説、そして戦後数十年後のウルトラシリーズ初期で終止符を打つまでの世界がふさわしいのである。
最後に蛇足として良心的な宣伝をしておくと、上の『木島日記』は同じ大塚英志原作の『多重人格探偵サイコ』などとリンクしていることが良く分かる。大塚英志著の小説版(原作版と言う位置付けでよいのだろうか?)は残念ながら未読なのだけれど、そちらは(当然のことながら)一層、それらのリンク部分が分かり易いようです。
最近『〜サイコ』に登場し始めましたよ。『木島日記』に登場するキャラクタたちが。